「化学教育ジャーナル(CEJ)」第2巻第2号/採録番号2-14/受理1998年11月17日
URL = http://www.juen.ac.jp/scien/cssj/cejrnl.html
気体と液体で、分子の速度はどちらが大きい?

吉村 洋介
京都大学理学部化学教室

0. はじめに

 同じ温度で分子の速度を比べると、気体と液体でどちらが大きいですか? 気体? 液体? 同じ? それとも、場合によりけり?

 こうした問題を、化学の学生さんに聞いてみると、たいてい「液体中では、分子の運動は周りの分子からの摩擦力を受け、分子の速度は小さくなる」といった答えが返ってきます。さらに親切(?)な学生は、液体中の運動エネルギーが気体中より小さいので「溶解の際に運動エネルギーが失われるので、気体の溶解は発熱的だ。」とまで言ってくれます。こうした誤解は、かなり深く浸透していて、大学院生、それも物理化学の専攻の院生でも、このような答えが返ってくることが、珍しいことではありません。

 こうした時ぼくは、まず「摩擦が働いたら、最後に分子は止まっちゃうね。それでもいいの?」と言うことにしています。すると、さすがに熱運動を否定する勇気まではないので、たいていみんな、「う〜ん」と考え込みます。この小文では、こうした分子運動論についての誤解の周辺を、少し考えてみたいと思います。

1. マックスウェル-ボルツマン分布

 たいていの学生さんは、1、2回生段階で、マックスウェル-ボルツマン分布について習っていて知ってはいます。けれども、マックスウェル-ボルツマン分布の細かい表式は覚えていても、その言わんとする内容に、余りにも気づいていない(気づかされていない)ようです。

 今、質量 m の同じ分子 N 個からなる温度 T の物体を考えます。マックスウェル-ボルツマン分布は、分子の速度分布 fN(v1, v2, ..., vN) について、

  1. それぞれの分子の速度分布は独立で, fN(v1, v2, ..., vN) = f(v1)f(v2) ... f(vN)
  2. その個々の分子の速度分布は、分子の質量と温度のみの関数で、圧力・密度などによらない, f(v) = f(v; m,T)

と、主張します。つまり、分子の速度がマックスウェル-ボルツマン分布に従えば、気体であれ、液体であれ、同じ温度なら分子の速度に違いはないのです。どうも多くの教科書では、ここの記述があまり強調されず、f(v) の関数形の具体的な形(正規分布)の方に関心が向けられていて、この何でもないが重要な性質が見落とされる結果を招いているようです。

2. 分子の速度と分子の拡散 -- 分子の速度と摩擦力

 分子の速度が液体中では遅くなるという誤解の背景には、分子の速度と、分子の拡散との混同があるようです。実際、1 気圧の気体と液体で、拡散係数(摩擦係数に反比例します)は4桁ぐらい、気体のほうが大きく、拡散が分子の速度に比例するなら、気体の方が、ずいぶん分子の速度が大きくなりそうです。しかし拡散で問題にされるのは、「分子集団の流れの速度」であって、「分子の速度」ではありません。流れやすいことは、ただちに分子が激しく運動していることを意味しません。このことは、1 気圧の気体と、2 気圧の気体で、同じ温度なら、拡散係数が半分になるが、分子の速度は同じであることからも肯かれることでしょう。また、通常の拡散で問題にする流れの速度と、分子の速度が大きく異なることは、よく認識されるべきであると思います。

 かりに 1 気圧で、空気の入ったフラスコと、純粋な窒素の入ったフラスコを 10 cm ぐらいの長さのガラス管でつないだとします。この時、拡散で移動する酸素の流れの速度は、おおむね拡散係数を長さで割ったもので評価でき、拡散の流れの速度はおおよそ 0.02 cm/s です。分子の平均速度から見れば、6桁ぐらいちがう勘定になります。液体ならこの差はさらに大きくなって、10 桁ちがう話になってきます。つまり、分子自身はあわただしく走り回っているのだけれど、「アリさん」の歌ではないですが、気体にしろ液体にしろ、「あっち行ってチョンチョン、こっち来てチョン」、というわけで、ほとんど前には進まないわけです。

3. 分子の運動エネルギーと溶解熱

 気体の溶解エネルギーが運動エネルギーの変化から来ているという誤解には、かなり深刻なものがあります。というのは、気体の液体への溶解について、発熱的な場合、吸熱的な場合、ともに知られているのですが、「運動エネルギーを失うのだから、発熱する」という「理論」が前面に出て、実験的な事実である吸熱的な溶解現象(たとえば水への水素の溶解)が無視される結果をしばしば、招いているからです。

 この問題について議論し出すと、長くなりますので、ここでは「運動エネルギーだけでは、溶解熱にとても届かない」ことだけ、指摘しておきます。たとえば、水への二酸化炭素の溶解エンタルピーは室温で -20 kJ/mol 程度ですが、この時の二酸化炭素分子の運動エネルギーは、気体分子運動論から 6 kJ/mol 程度です。つまり、二酸化炭素が持っている運動エネルギーをすべて吐き出しても、とても溶解エンタルピーの値には届かないのです。マックスウェル-ボルツマン分布の立場からは、溶解にともなう運動エネルギーに変化は存在せず、溶解熱は挙げて分子間相互作用からの寄与ということになります。

4. マックスウェル-ボルツマン分布の破れ -- 液体中の方が速度は大きい

 すでに1節で述べたように、マックスウェル-ボルツマン分布が成り立てば、気体であれ液体であれ、同じ温度なら分子の速度・運動エネルギーは同じはずです。しかし、マックスウェル-ボルツマン分布は、どんな条件下でも成り立つのでしょうか?

 実は、分子間に働く力が(熱運動に比べて)大きくなってくると、通常の液体ではほとんど無視できるのですが、マックスウェル-ボルツマン分布からの偏差が大きくなってきます。このことは、固体でいえば、デュロン-プティの法則(固体のモル比熱はものによらずに一定)が成り立たなくなることと、同じ種類の問題です。つまり、いわゆる「(半)古典的」な取り扱いが破れて、「量子論的」な取り扱いが必要になるのです。そして、こうした場合には、同じ温度なら、一般に液体中のほうが気体中より、分子は速く運動すると見なせます。

 この事情は、振動のゼロ点エネルギーを考えていただけるとよいと思います。量子論的な効果によって、たとえ絶対零度であっても、分子振動エネルギーは 0 にはなりません。強い相互作用が存在することは、分子を強いバネで、ある場所に縛り付けるようなものだと思えば、相互作用が強くなると分子にゼロ点エネルギー分の運動エネルギーを、与える必要があるわけです。つまり、同じ温度なら、ゼロ点エネルギーのゲタをはいている分だけ、相互作用の大きな液体(あるいは固体)中の分子の運動エネルギーは、小さくなるどころか大きくなるのです。

5. おわりに

 分子論に基づいて、物質に関わるいろんな現象を説明するのに、しばしば、われわれは日常的な直感を用います。しかし、われわれの身の丈での直感は、分子の身の丈に立ったときには、必ずしも妥当しません。この何でもないが、大事なことが、学生さんはもとより、学会などでの研究者のやり取りを見聞きしていて、どうもおろそかに扱われがちのように感じています。この小文が、そうした、われわれの身の丈と、分子の身の丈とのちがいを考える一助となれば幸いです。


Which is the molecular speed greater, in gases or in liquids?

Yosuke YOSHIMURA, Faculty of Science, Kyoto University
E-mail: yyosuke@kuchem.kyoto-u.ac.jp
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